夏に聞こえてくる音といえば?と問われれば、風鈴や花火の音、松尾芭蕉が詠んだセミの声などが挙げられることでしょう。これらは日本人にとって古くから定着した夏の風物詩なので当然ですね。ところが、セミの鳴き声に対するイメージは外国人にとっては異なり、夏をしみじみと感じ入るほど馴染みがないようです。今回はセミと日本人、あるいは外国人との関係についてイソップ童話などにふれながら見ていきましょう。
涼ということではなく、音で夏を感じるというとセミの声がお馴染みです。ただしこれも日本人ならではの感覚で、海外では通用しません。 映画などでは青い空にセミの鳴き声を重ねるだけで多くの説明なしに夏だと解りますが、海外では「何か変なノイズが入っている」と感じてしまうこともあり、海外ではセミの鳴き声を抜いたものが上映されることもあるみたいです。 よく「ヨーロッパにはセミはいない」と語られる事がありますが、実際にはイギリスなどではセミを見かける事がないだけで、イタリアやスペインなど地中海沿岸にはセミが棲息しています。
ギリシャ人のイソップが書いたとされる童話集の中にある「アリとキリギリス」は元々「アリとセミ」で、夏の間ずっと鳴き続けて秋口には死んでしまうセミと、炎天下もずっと仕事をしているアリのお話だったそうです。しかしこの童話がイギリスに伝えられた時にセミでは意味不明だということでキリギリスに置き換えられたものが全世界的に有名になってしまったのです。 しかしセミの存在を知っているヨーロッパの人も、それを季節感として捉える事がほとんどなく、ただのノイズと感じる人が多いそうで、中には無意識にノイズとして脳が処理して「そんな音は聞こえない」としている人もいるそうです。
日本では松尾芭蕉が詠んだ『閑さや/岩にしみ入る/蝉の声』の句のように静けさと対比する音として捉えたり、明欽という修行僧はセミの声が「ミョーキン、シネ、シネ」と聞こえたことから悟りを開いたりと、様々な形で記録されています。 明欽が聴いた声はおそらくハルゼミと呼ばれるセミの声ですが、かつて「松尾芭蕉が詠んだセミは何か?」について文壇で対立が生まれたことがあります。 歌人の斎藤茂吉が「芭蕉のセミはアブラゼミである」と書いた文章に、評論家の小宮豊隆が「いや違う、あれはニイニイゼミだ」と反論し、お互い譲らずに論争になりました。 松尾芭蕉が山形県の立石寺(りっしゃくじ)で句を詠んだのが旧暦元禄2年5月27日。新暦では7月13日だという事で、現地に赴き「この時期の山形県ではニイニイゼミしか鳴いていない」という事で決着しています。
日本人にとってセミは大の大人がそこまで真剣になってしまうほど重要な夏の生き物ですが、松尾芭蕉は他に「やがて死ぬ/けしきは見えず/蝉の声」という句も詠っており、夏を精一杯生きるだけ生きて死んでいくセミの姿に哲学的な思いを馳せています。イソップ物語とは逆に、セミの姿に哀れみを感じているのです。 海外では無視されがちなセミですが、日本にはノイズとも思えるセミの声すら愛でる感覚があり、シャワーのように降り注ぐ情景を表す「蝉しぐれ」という綺麗な表現も存在しています。
※今年6月に広島県の高校生が「セミは地上に出てから1週間で死ぬと言われていたが、実際には10日以上、種類によっては1ヶ月ほど生存する」という研究発表をして話題になっています。それでも何年も土の中で過ごし1ヶ月の命、は切なく感じてしまいます。
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記事投稿者
杉村 喜光(知泉)
雑学ライターとして、三省堂『異名・ニックネーム辞典』、ポプラ社『モノのなまえ事典』など著作多数。それ以外に様々な分野で活動。静岡のラジオで10年雑学を語りテレビ出演もあるが、ドラマ『ショムニ』主題歌の作詞なども手がける。現在は『源氏物語』の完訳漫画を手がけている。 2022年6月15日に最新巻『まだまだあった!! アレにもコレにも! モノのなまえ事典/ポプラ社』が発刊。